相変わらず 清々しい文章だ^^

抜粋して、載せさせていただきます

本文はこちら様のブログです


人間関係における不幸の原因の9割は「過干渉」だと思っている。
他人の人生に口出しをしたり、他人の目線を気にしてみたり、他人の理解を求めたり何かを説明することにエネルギーを使うことは、多分、過干渉のリスクを含んでいる。
それよりも、理解を求めたり何かを説明することよりも、自分しか行けない場所まで、どんどん足を進めること。
理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、言葉を超える。




みんなと同じであることが何よりも優先される環境においては、自分に忠実であろうとするほどに、周囲の人たちから遠く離れてしまう。
しかし、みんなと同じであることの安心は、自分であることの喜びを剥奪する。
あらゆるものが自分以外の何者かに変わることを強要してくる中で、それでも自分として在り続けることは、唯一無二の偉業になる。
そして、理想的な調和とは「みんなが同じことをしている状態」ではなく「みんながバラバラのことをしていながら、それでも全体の調和が取れている状態」だと思っている。





多分、恩は返すものではなくて
「次のひとにまわしていくもの」だと思う。
それを相手に返すものだと考えてしまうから(または相手に返すことを強要されるから)受け取り辛くなるのだろう。
恩や愛情の本質は投げっぱなしジャーマンであり、大切なのは『受け取る力(レシーブ力)』だと思う。





何かをしなければいけない、何もしていない人間は無価値だとされている世の中で、最大の反逆は「何もしないこと」だと思っている。
世間的に良しとされていることは何もしない状態で、静寂の領域を保ち、同時に限定的な境界線を超えて膨れ上がりながら、内面は深く満たされているなら最強だ。





静けさの中には安定がある。




自分で決めるということを投げ出した私に残るものは「どうする」ではなく「どうなる」になる。
どうするという言葉の主語は『自分』になる。
自分で何をするのかを決めて、そのための手段や方法を自分で確保し、基本的にはあらゆることを自分の力で成し遂げていこうとする態度が「どうする」には宿る。
自分で決めることのリスクは、自分で決められる範囲内の出来事しか起こらないということだ。




それに対して、どうなるという言葉の主語は『世界』になる。
別に卑屈になる訳でもなく、自分をオープンにしたままの状態で自分を世界に放り投げる。
ピンボールのように弾き飛ばされながら、予測不可能な場所に運ばれていくことを楽しむ姿勢が「どうなる」には宿る。
自分で決めないことのリスクは、何が起こるかわからないということだ。
いまは「どうする」よりも「どうなる」のかわからない状態を、楽しんでみたいと思っている。



周囲の理解を求めたり、何かを説明することにエネルギーを注ぐことで、自分が本来やりたいと思っていたことに対するエネルギーが枯渇してしまうのは本末転倒だ。
エネルギーの最適な使い道は、周囲の理解を求めるためでも、何かを説明したり、自分の正当性を主張することでもなく、自分がやりたいと思うことに脇目も振らずに全身全霊を注ぐことだ。
その姿勢が、その後ろ姿が、その生き様が最大の説得力になり、触れるひとの心を動かす。





自分に限界を設けているのは、多分、他の誰でもない自分自身だ。
自分が自分に「大丈夫じゃない」というメッセージを放ち続けている限り、永遠に現在を抜け出すことはできない。
自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいと思ったからやる、そういう決意の凄味の先に、自分オリジナルの魅力が宿るのだろう。
駄目なら駄目でも構わない。重要なのは「潔く、清々しくあること」だと思っている。




自分は駄目だと思うことに何の価値も意味もない。
そして、自分は駄目だという声は、常に自分の外部から聞こえているはずだ。
自分の内側から「自分は駄目だ」という声が聞こえてくるはずがない。
そういう声はノイズであり、自分が嫌いなものに自分の貴重なエネルギーが奪われてしまっている証拠になる。
自分が嫌いなものにではなく、自分が好きだと思うものに使ってこそのエネルギーだ。使い道を間違ってしまってはいけない。



嫌いなひととの付き合い方とか、嫌いな仕事との付き合い方とか、嫌なことを無理をしてでも好きになるための努力論が溢れているけど、本当は『好きなひとと過ごすこと』と『好きな仕事を追求すること』の方が圧倒的に重要で、好きなことをやるのに自分を擦り減らす努力なんて要らないんだ。





この人でもいいかなじゃなくて、この人といたいと思える人といること。




「神は静けさと共にある」ということを思った。
神は賑やかな場所を好まない。
必要なものは既に備わっている。
自分の中に静寂を養うこと。余計なものを付け足していく「足し算」的な思考ではなく、余分なものを削ぎ落とした先に残るもの、それが自分自身になるのだろう。




認められたいと思ってやることよりも、認められなくても別に構わないと思ってやることの中に、魅力は宿る。





誰かのためとか言い始めた瞬間から、ひとはつまらなくなるのだと思った。
こどものためとか地域社会のためとか世界平和のためとか、そういうことも素晴らしいことなのかもしれないけれど、徹底的に自分のためにやっているのだと言える人の清々しさが好きだ。




言葉を雑に扱うことは、自分を雑に扱うことと同じであり、自分自身を雑に扱いながらも「他人から丁寧に扱われたい」と思い願う矛盾がノイズになり、空間を荒らす。
言葉を雑に扱う人間は、常に、自分自身を通じて不協和音を発している(そして、不協和音に自分が一番苦しんでいる)のだろう。




みんながやりたいことをやり始めたら社会はまわらないなんて、多分、嘘だ。
誰もがお前みたいに好きなことをやったらどうなると思っているのか、とか、そんな言葉を言われた時は
「よく聞け、誰もがやりたいことをやり始めたら、この星が宇宙で一番しあわせな星になるんだよ」と答えればいい。





多分、人間は美しいものに囲まれていれば勝手に美しくなる。




かわいさとか、ユーモラスな存在というか、真面目なだけではないくだけた部分といいますか、そういうものがとても大切であるような気がするのです




今日の結論としては、赤ちゃんこそ最強であると。
最弱こそ最強であり、意外と人生はどうにかなるのだから、気持ちの良い風を浴びていこうぜ、と




自分が嫌だと思うことには、はっきりと嫌だと言う。
同じように、自分が好きだと思うことに対しては、周囲の人間が何と言おうが「自分はこれが好きだ」と宣言する。周りがどうあれ自分自身は、言いたいことを言う、やりたいことをやる、それだけのことで人間は清々しく生きることができる。





うまくいこうが、うまくいかなかろうが、自分は自分以上でも自分以下でもないのだから、自分自身をダイレクトにぶつけて行くしかない。
重要なのは「うまくやること」なんかではなく、失敗しても、恥をかいたとしても、自分はやれることはやったのだという清々しさを感じることができる限り、それは素晴らしい人生のプレミアムシーンになる。




自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。
うまくやろうとするのではなく「ダメでもいいのだ」という許可を自分におろせた時、その人は無敵になる。この「ダメでもいいのだ」という人生の素晴らしい逆説は、人間を無敵にする。そして、本来であれば誰もが無敵な存在だったということを、優しい感覚と共に思い出させてくれる。




孤独について考えていた。
孤独という言葉から、ポジティブな印象を受けるのか、ネガティブな印象を受けるのか、どちらの印象を抱く人が多いのだろうか。一般的に、孤独は「あまり歓迎すべきものではない」ものとして捉えられることが多いように見受けられる。言い換えれば、この世の中にある様々なイベントやサービスやソーシャルアプリケーションは「孤独をごまかすため」に存在しているように感じることがある。




孤独な時、それはきっと、自分に必要な何かに対峙をしている時だと思う。
孤独をごまかせば一時的な苦しみからは逃れることができるけれど、同時に、自分自身を取り逃がす。
多分、孤独な時にひとは「ほんとうの言葉」を見つける。それは、他の誰でもない自分自身の内側から湧き出してくる言葉であり、誰にも汚染されていない、純粋な熱情が含まれている。



孤独を感じる時期は辛いが、自分の気持ちを誰かに理解してもらおうとか、寂しさを紛らわすために投じる時間は、充実よりも虚しさに繋がりやすい。理由は単純で、表面的だからだ。表面的な繋がりは、自分の内側から湧き出してくる「ほんとうの言葉」を引き離してしまう。




どれだけ遠くに足を運んでも、どれだけ多くの経験を積んでも、自分の中にある孤独を掘り続けることがなければ、自分の根幹を定めるほどの言葉を獲得することはできない。




孤独はごまかすためにあるのではなく、まだ何にも汚されていない、誰にも汚染されていない「ほんとうの言葉」を獲得するためにあるのだろう。そして、ほんとうの言葉は、橋を架ける、自分はひとりだなんていうことを吹き飛ばしてくれる。




孤独を掘れば、みんなに出逢う。ほんとうの言葉を手に入れた瞬間から、多分、そのひとは既に「ひとり」ではない。孤独を身につけた人は、誇り高い。他の誰でもない自分自身の内側から湧き出してくる言葉の中には、誰にも汚されていない、純粋な熱情が含まれている。




孤独を身につけた人は、誇り高い。





ここは一回いけばもういいやと思う場所と、ここは繰り返し足を運びたくなる場所がある。
この違いは何だろうか。おそらく「ひと」が何かしら関与しているような気がしている。
会いたいひとがいれば、どれだけ僻地であろうとも人間は何度でも足を運ぶ。
パエリアが美味かった、このパエリアをあのひとにも食べさせてやりたい、ここの景色が最高だった、この景色をあのひとと一緒に眺めてみたい、など、何かを見たときに思い浮かぶ「誰か」の存在が、再び足を運ばせる動機のひとつになるのかもしれない。








自分はダメだと思うのが一番良くない。
良くないというか「自分はダメ」になる訳がないと思う。
自分の存在を「良い」とか「悪い」とか、そのような次元で語ることはできない。
多分、自分はダメだという声は、自分の内側からは出てこない。その声はいつも、自分の外側から聞こえているはずだ。




生きていることに意味を求める必要なんて、ないような気がします。
空や海に意味を求める必要がないように。





自分が何かを話したくなったら話せばいいのだし、話したいことが特にないのであれば、余計な罪悪感とかを持つ必要はないと思うので、何も話さないでいればいいだけなのだと思います




答えを共有することはできないし、答えを共有したいとも思わない(だからこそ面白いのだと思う)けれど、問いであれば共有することができる。会話の中で、自分たちは「答えを共有しようとしているのか」それとも「問いを共有しようとしているのか」で、その場の雰囲気は大きく変わるのかもしれない。




人生は続く




2015.10.24